まず最初に言いたいのは、最後まで見て、どうフェアーに見ても、全く原作のよさがない、というより話として全くナンセンスだと思うということです。正直言って私は恋愛物が一番嫌いです。これは私に彼女ができないから僻(ひが)んでといった理由ではなく、作品を楽しむ上で恋愛物が嫌いという意味です。なぜかというと、恋愛物は非常に視野が狭いからです。所詮単純な恋愛ものは二人(若しくは数人)の関係を描くだけで結論は単に二人が結ばれるという(たまにどっちか死んだりしますが…)非常に狭い世界で話が進行していくため、話に奥行きが出ません。今年(2008年現在)のセンター試験問題に近代の空間が失ってきたのは深さの次元であるという文面があります。この文面で扱っている失った深さの次元は近代建築となっていますが(問題知らない方すみません…)、私は、この失った次元は今日のアニメーション、というかドラマ等も含めた多くの作品にも該当する事象なのではないかと思います。ではなぜ奥を失うのでしょうか。理由は簡単です。先ほど申し上げたように視野が狭いからです。双眼鏡を思い浮かべてください。双眼鏡は拡大してものを見るつまり小さな世界を見ることができますが、視界つまり見ることのできる範囲視野は非常に限定され、また奥行きが分り辛くなります。普通高倍率のレンズを通して見た画像がどれくらい距離があるかなんて大してわからないですよね。アニメーションも一緒です。最近は恋愛という非常に高倍率のレンズを用いて話を書くものが多いため、奥を失いやすい傾向にあるといえます。では具体的にアニメーションにおける奥とは何でしょうか。それは、物語の性質によって変わってくると思いますが、この作品の原作『ef a fairy tale of the two』では、物語の壮大さ、各キャラクターの細かな心境の変化、そして何より物語全体のの美しいまでのしなやかさ、といったビジュアル的でない部分ではないかと思います。しかしこの作品にこういった奥を形成する要素があるでしょうか。多分ないのではないかと思います。やはり典型的に恋愛というレンズを主軸にしているため前述の奥というものを欠いてしまっているのではないかと思います。確かに原作も恋愛シュミレーションの部類に入るゲームですが、ここまで高倍率のレンズは使っていません。ほかにその倍率を弱めるためのレンズが入っています。それは漫画家という職業に関することだったり、部活のことだったりといったことです。そしてそのレンズが恋愛のレンズと合わさりちょうどいい倍率に収まっています。前述の通り、私は恋愛物は大嫌いです。しかし、恋愛以外の要素(だたし更に視野を狭めるような内容を除く)が加わった話は大好きです。前述のように恋愛というどぎつい倍率を緩めてくれるからです。このページを見る人で京都アニメーションを知らない人はいないでしょう。なぜ京都アニメーションの作品があそこまで売れるのに(しかもジャンルは同じようなものなのに)、他はいまいちなのかというのの理由には、この奥というものが非常に深くかかわっていると思います。京都アニメーションはこの奥を捉えるのが非常に上手です。どのような描写、どのような絵コンテ、どのような技術を用いたら作品の奥を捉えることができるのかということを熟知しています。シャフトもいろいろな技術を用いてはいますが、恋愛と、七尾奈留の美しい絵に気を取られすぎていて、結局正しい的を射てはいない、つまり奥がない、というよりもむしろ変な過剰演出、道理にかなっていない演出(たとえばいきなり主人公が学校やめるとか言ったり…。普通いきなり学校やめるなんて安易なことを言ったりはしないでしょう)といった要素によって更にディメンションを失っている、つまり横幅(別に縦幅でもかまいませんが、まあこの場合は横幅にしておきましょう)まで失ってしまっているような気がします。これでは到底一般人の目にはとまりません。目にとまるのは七尾奈留の絵に惹かれた上辺だけの愛好家と変わり者(こういっては失礼ですが…)だけです。監督は何度も見られるような作品に仕上げたといっていましたが、一次元しかない作品を三次元で書かれた作品が存在する世の中で何度も見ようとは思いません。日本人はアニメーションの技術がすごいと世界的に評価されていますが、それは嘘です。本当は世界中でアニメーションはそれほど普及していない上に、日本人がたくさん作品を作るから、たまたま(ここが重要です)その中に非常に質の高い作品が混じっているために日本はアニメーションの質が高いと思われているだけで実際は、大して世界中と変わらないのではないかと思います。もしこの文面をシャフトの方が見ていらっしゃったらもう一度自分が本当に上辺だけでなく全体的に人を魅了するだけの作品を書いているのか、ちゃんと奥を出すようにしているのかを考えてみてほしいと思います。